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鉄筋コンクリート造の始まりと、コンクリート打放し仕上げの歴史
鉄筋コンクリートは、鉄・ガラスと共に、それまでは主に木や石でのみ造られていた建築を技術的に大いに発展させ、
デザイン的にも近代建築(モダンアーキティクト)は、鉄とガラスと鉄筋コンクリート無しには考えられません。
広い意味でコンクリートを捉えれば、古代ギリシャ・ローマ時代には、既に石材の充填材として、天然セメントを用いた
コンクリートが用いられていました。特に1000年にも渡って繁栄を続けたローマ帝国の基盤を造った土木建築には、
コンクリートは無くてはならないものだったと考えられます。
人工セメント製造が多く行われるようになったのは、19世紀に入ってからで、1824年に製法特許取得したイギリスの
ポルトランドセメントが最も普及し、現在に至っています。
セメントと砂と砂利を混ぜて造られるコンクリートは、19世紀前半から欧米において、土木工事や建物の基礎や床に広く用いられるようになります。
コンクリートが鉄筋と組み合わされ、鉄筋コンクリートとして初めて登場するのは、1848年にフランスのランボーが考案したボートや、
イギリスの左官ウィルキソンが、1854年に特許を得た一種の鉄筋コンクリート耐火床だと言われています。
1855年のパリの第1回万博では、ランボーは鉄網コンクリート製のボートを出品。
1867年フランスの庭園師モニエーは、鉄筋コンクリート製の植木鉢で特許を取得し、同原理で鉄筋コンクリート床や橋梁、階段、
枕木などでも特許を取得しました。
鉄筋コンクリート建造物としては、1867年の第2回万博で、フランスのコワニエの特許を用いて建てられた、3階建ての集合住宅が最初と言われています。
この集合住宅の意匠がどのようなものかは、資料が見つけられず分かりませんが、この世界初の鉄筋コンクート造の建物が、
世界初のコンクリート打放し仕上げであったのかもしれません。
19世紀後半、鉄筋コンクリートはドイツのワイス、フランスのアンネビック、アメリカのランサムらの手によって、
一体的な構造として完成。橋梁や貯水塔などの土木施設や発電所や工場などの建築施設に用いられました。
アンネビックが鉄筋コンクリート造の建物をラーメン造として体系化したアンネビック工法は、明治後期に日本に技術導入される事になります。
20世紀に入り、鉄筋コンクリートを本格的に建築に取り入れ、デザイン的に発達させたのがフランスのオーギュスト・ペレーです。
ペレーのデザインの考え方は「最小限の材料と労力により最善の仕事をする」「構造の単純化」「コンクリートの美しさを生かす」ことであり、
これらの考え方は現在でも充分通用するものです。
ペレーの設計した鉄筋コンクリートの建築としては、1903年のフランクリン街のアパート、1905年のポンチュウ街のガレージ、
1913年のシャンゼリゼェ劇場などが、いずれもパリに建てられましたが、これらの建物はコンクリート打放し仕上げではなかったようです。
コンクリート打放し仕上げの初の建物と言われているのは、1923年に建てられたノートルダム・ル・ランシー教会です。
尖塔やコンクリート・ブロックに嵌め込まれた鮮やかな色ガラスなどから受ける印象は、ゴシック的ではあるものの、
細く高い丸柱によって支えられた側廊の連続アーチの天井や、身廊の緩やかなヴォールトのデザインは鉄筋コンクリート造ならではとも
言えるでしょう。また、華美に過ぎる装飾を施された教会とは違い、コンクリート打放し仕上げの禁欲的な表情は、
新しい教会建築のモデルになったと言えるかもしれません。
1927年にスイスのバゼルにカール・モーザーの設計で建てられた聖アントニウス教会も、
内外共にコンクリート打放しで建てられ、円柱が角柱に変わってはいるものの、細長い打放しの列柱がヴォールト天井を
支える構成や、外壁の大部分を占めるステンドグラスのから受ける印象などル・ランシー教会の影響を強く受けていることが分かります。
ペレーはル・ランシー教会で細い柱とヴォールト屋根により、石造に変わる鉄筋コンクリート造構造体としての可能性を示しましたが、
素材としてのコンクリート、仕上げとしての打放しに何所まで拘ったかは定かではありません。
この後直ぐに、コンクリートの造形的表現による可能性を証明する建築がスイスに建てられます。1928年竣工の第二ゲーテアヌムは、
コンクリートの巨大な塊を巨大なノミで切り出したような外観で、コンクリートのもつ彫塑性を芸術的に表現した最初の建築であり、
その巨大なコンクリート打放しの壁(と言うより塊)が醸し出す強烈なインパクトを持つ建築は、他には見つけることが出来ません。
ル・ランシーから僅か数年で、コンクリート打放し建築の傑作が早くも誕生していた事実には驚かずには居られません。
第二ゲーテアヌムはルドロフ・シュタイナーが建設し1922年に焼失した第一ゲーテアヌムを、彼の死後、模型を元に再現したものです。
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現在の日本では、コンクリート打放しと言えば、安藤忠雄氏を思い浮かべる人が多いでしょうが、その歴史は意外に古く、
最初にコンクリート打放しで建てられた建物は、ペレーのノートルダム教会のわずか1年後の1924年にアントニン・レーモンドの設計で
建てられていますが、まずはコンクリートと鉄筋コンクリート造の日本における歴史に触れておきます。
日本では1872年にセメントの試作が行われ、小野田セメント、浅野セメントが創設されて、量産されるようになりました。
鉄筋コンクリート構造は1894年に田辺朔郎によって、造家学会における講演で紹介されます。
1903年には、スパン12Mの琵琶湖疎水路上架橋が田辺朔郎の設計で、日本で初の鉄筋コンクリート造の構造物として造られ、
1905年には海軍技師真島健三郎の設計により、佐世保の海軍施設内に建てられたポンプ倉庫が、日本で初の鉄筋コンクリート造の建築物として建てられています。
同年、井上秀二の設計で京都高瀬川にアーチ橋が、白石直治の設計で神戸和田岬に2階建ての倉庫が相次いで竣工しています。
1907年には佐野利器の設計で鉄筋コンクリートスラブを用いた日本橋の丸善本店が竣工。
その後も、佐野利器、白石直治、遠藤於兎、日比忠彦らによって、研究や設計が続けられ、1910年に白石直治によって
設計された東京倉庫G号棟が、日本初の本格的な鉄筋コンクリート造の建物で、遠藤於兎の設計で同年に竣工した
三井物産横浜支店1号館が最初の鉄筋コンクリート造のオフィスビルとして記録されています。
この建物は現存し、今もオフィスビルとして現役で使用されています。
話をここでコンクリート打放しにもどしますが、ここからは主に1995年に発行された新建築の増刊号「現代建築の軌跡」を
参照しながら話を進めていきます。
小規模な倉庫や土木施設を除き、コンクリート打放し仕上げをデザインとして取入れた最初の建物は、
帝国ホテルの設計の為に来日したF・L・ライトのスタッフとして来日した、チェコ出身のアントニン・レーモンドの
東京雲南坂の自邸(1924-1926年)で実現されます。
装飾的なライトの影響から脱し、モダンデザインにコンクリート打放し仕上げを取入れたレーモンドの自邸は、
コルビジェが30年代以降にコンクリート打放しの建物を建てていくことを考えるに、その先駆的な意義は大きいと言えるでしょう。
また、コルビジェやシュタイナーの造り出すコンクリート打放しの建築が、鉄筋コンクリートの持つ造形的な特性を
利用しているのに対し、レーモンドは日本建築に見られる、素材の表現や構造を現す単純性を追及しことも、特筆すべき点でしょう。
1935年にもレーモンドは川崎邸と赤星邸と言う、現在からみてもかなり規模の大きな大邸宅をコンクリート打放しで設計しています。
この建物は10年前に設計した雲南坂の自邸が、壁を中心に構成されたプランであったので対し、
柱を積極的に用いたことで、リビングなどに開放的な大空間を実現し、川崎邸ではエントランスにピロティ的な要素も現れます。
屋上庭園や連続する窓なども見られ、この頃にはかなりコルビジェの影響も受けていたことが窺がえます。
またどちらの住宅にも、日除けの為のオーニングが見られます。元々深い軒の出で、陽射しから屋内を守っていた家屋に住み慣れた日本人には、
庇が無い四角い豆腐の様なモダンデザインの家に住むには、日除けの為のオーニングは必要不可欠だったのではないでしょうか。
現在ではナミュール・ノートルダム修道女会となっている赤星邸ですが、戦後米軍に接収され、
塗装された姿を見たレーモンドがひどく怒ったと言う話も残っています。
1938年には、レーモンドは東京女子大学で、先に記したA・ペレーのノートルダム・ル・ランシー教会を模した礼拝堂を
コンクリート打放しで設計しています。
ゴシック風の尖塔のデザインは言うに及ばず、ブロックに嵌めこまれた色ガラスやヴォールト屋根のデザインもそっくりで、
ル・ランシー教会を真似たことは、レーモンドも認めています。
大正12年に首都東京を襲った震災から、太平洋戦争に突入するまでの約20年間に、東京では多くの建物が、
耐震耐火性に優れた鉄筋コンクリート造によって建てられました。
そのデザインには、明治生命館などの様式建築、旧首相官邸の様なライト様式、東京帝室博物館の様な帝冠様式、
朝日新聞社の様な表現主義、東京市営繕課が一連の小学校建築に取り入れたインターナショナルスタイルなど、実に様々な様式が採用されます。
住宅の建築においても、震災後の住宅不足を補う為に誕生した同潤会アパートにも当然のこととして鉄筋コンクリート造が採用され、
この時期各地で建てられた若手建築家によるインターナショナルスタイルの個人住宅の多くも鉄筋コンクリート造ではありましたが、
それらの住宅が「白い家」と呼ばれていたことから、打放し仕上げでなかったのではないかと思われます。
また、前記したレーモンドの赤星邸でのコンクリート打放しに対する当時の記者の
「潔癖な日本人にとっては一寸近づき難いかもしれないが・・・」と言う感想からも窺がえるように、
当時の日本人にとってコンクリート打放し仕上げは、まだ簡単に受け入れられるものではなく、
戦前の日本の建物においてコンクリート打放し仕上げが、デザインとして積極的に用いられた例は、
レーモンドの一連の住宅と東京女子大礼拝堂の他は、わずかに1929年に竣工した蒲原重雄設計の小菅刑務所で採用された、
との記述を見ることが出来るくらいです。
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その事情を一変させるのは第二次大戦での敗戦です。
米国のB29による焼夷弾と原子爆弾によって、震災の時とは比べ物にならないほどの規模で焼け野原になった
日本の国土を復興する為、コンクリート打放しは仕上げをそぎ落とした禁欲のデザインとして、
日本各地の公共建築(庁舎や体育館)や大学校舎や工場建築で採用されていきます。
その初期の代表格と思われる二つの建築は、いずれも終戦後間もない建築設計競技(コンペ)によって、被爆地広島に建てられています。
その一つは1949年に行われた平和公園コンペで選ばれ、1956年に竣工した丹下健三設計の広島平和会館(広島ピースセンター)です。
丹下健三は戦後の日本建築会の牽引車として活躍し、50〜60年代に掛けて日本各地の庁舎や体育館などの公共施設を、
次々にコンクリート打放しで実現していきます。特に1959年竣工の香川県庁舎では、コンクリート打放しの柱と梁を木造の木組みに見立て、
レーモンドが目指した素材としてのコンクリート打放しを、より鮮明に表現しました。
もう一つのコンペ、1947年に行われた広島平和記聖堂のコンペでは、当選案が無く、結局審査員であった村野藤吾が
設計を担当して物議をかもし、1955年に竣工しました。コンクリート打放しの柱と梁のフレームに、原爆の灰を含んだ
広島の土で焼かれた煉瓦をはめ込んだ簡素な外観のこの聖堂は、香川県庁舎と同じように打放し柱と梁を表しながらも、
木造の木組みを表現したものではなく、当時の日本が置かれた貧困の現状を踏まえた上での材料の選択であり、
焼け野原となった広島の地で平和を願う場に相応しい、簡素で力強い材料として選ばれたものだと思われます。
関西の建築家渡辺節の事務所で様式建築と共に、経済性を建築における重要な要素だと学んだ村野は、貧しい時代の表現として、
この後も横浜市庁舎など幾つかの公共建築や、早稲田大学や関西大学などの学校建築でも、コンクリート打放しを採用していきます。
丹下健三や村野藤吾の他にも、その後巨匠と呼ばれるようになる、当時はまだ若手の建築家達が次々にコンクリート打放しの建築を建てています。
後に、様々な美しいタイル張り建築を世に送り出す前川國男も、50〜60年代には実に多くのコンクリート打放し建築を設計しています。
1959年竣工の世田谷区民会館では「コンクリートで空間を創る」ことがテーマとされ、音響効果を考慮して用いられた折版構造の
コンクリート打放しの巨大な壁は、内外空間が一体となった造形表現になっています。1961年竣工の東京文化会館では、
ル・コルビジェのロンシャン教会を思わせる打放しのマッシブな巨大な曲面庇を、打放しの列柱が支えています。
アントニン・レーモンドの設計で1961年に竣工した群馬音楽センターも、スパン60Mの巨大空間を作り出す
コンクリート打放しのダイナミックな折板構造は、見るものを圧倒する迫力です。
香川県庁舎の数年後、丹下健三が設計した日南市文化センター(1963年竣工)の開口部の少ないピラミットのような外観は、
内外ともにほとんどがコンクリート打放しで構成されたコンクリートの塊のような建物です。
マッシブな表現のコンクリート打放しを考える時、忘れることの出来ないのは、1965年に竣工した吉阪隆正設計の大学セミナーハウスでしょう。
ピラミットを逆さまにして、大地に突き刺したようなセミナーハウスの本館は「教授や学生を一つにまとめるだけの強さを表現しようとした」
と言う言葉通り、コンクリートの造形性と荒々しい素材感を現し、見る者に強烈な印象を与える建物です。
1964年から65年に掛けて丹下健三が世に送り出した国立屋内総合競技場、香川県立体育館、東京カテドラル聖マリア大聖堂は、
吊り屋根構造やHPシェルなど、構造建築家との協力でコンクリートの構造的可能性を最大限に発揮さらせた、
コンクリートの構造デザイン美を表した傑作として特筆すべき建物でしょう。
丹下健三の香川県庁舎のように、コンクリートで伝統的な木構造の木割りを表現した建物としては、
1963年に竣工した菊竹清訓設計の出雲大社庁の舎が挙げられます。50mに及ぶ棟梁をはじめ、庇や方立てなどの横桟の多くを、
プレキャスト・コンクリートで構成し、コンクリートの素材感も表しています。
1966年に公開設計競技(コンペ)を経て建てられた国立京都国際競技場では、コンペの設計条件で要求された「日本的性格」に対し、
設計者の大谷幸夫は小叩き仕上げのプレキャスト・コンクリート・パネルで組んだ、稲懸けの台形をモチーフにした造形で応えました。
「現代建築の奇跡」を見ると、1950年〜1960年代に掛けて、この他にも日本において実に多くの公共建築や大学・オフィス・
工場などの大形施設が、コンクリート打放し仕上げで建てられたことが分かります。
しかし70年代に入ると、コンクリート打放しの公共建築の記載は少なくなります。
この頃の日本は高度成長期を向えた豊かな時代を向かえ、建物に石やタイルで仕上げをする余裕が出来たのか、
人手不足でコンクリート打放し仕上げに耐えられる、質の良いコンクリートが打てなくなった為かは定かではありません。
公共建築を離れ、住宅系の建物に限ってみてみましょう。
集合住宅建築においては、終戦直後の復興期には高輪都営アパート(1947年)、戸山ヶ原都営アパート(1949年)、
大映共同住宅(1949年)が不燃化促進の為、当然のように鉄筋コンクリート造で建てられていますが、敗戦国の悲しさか、
フランスの戦災復興の一環として計画された、ル・コルビジェ設計のユニテ・ダビタシオン(1945-1952年)のように、
デザインに拘る余裕は無かったようで、コンクリート打放しとの記述もありません。
デザインに拘り、しかもコンクリート打放し仕上げを採用した戦後初の共同住宅が「現代建築の奇跡」に登場するのは、
1953年にレーモンドが設計したアメリカ大使館館員アパート・ぺリーハウスからでしょう。壁式の打放しに赤や青に着色されたバルコニーのパネル、
日本初のメゾネットの採用など、今日でもすぐに満室になりそうなそのお洒落なデザインからは、
明らかにコルビジェのユニテの影響やリートフェルトの影響も見て取れます。
日本人による日本人の為のコンクリート打放しの共同住宅は、1957年に大宮と横浜に建てられます。
どちらも大企業の社宅で、一つは富士重工業大宮アパート、設計者は生田勉・沖種郎・宮島春樹の3人が記載されています。
A・B棟の2棟から成る2階建ての社宅で、連続する緩やかなヴォールト屋根が特徴です。
もう一棟はブリジストンタイヤ横浜工場の近くに建てられた殿ヶ谷第一アパートで、設計は菊竹建築研究所です。
写真で見る限りラーメン構造-7階建ての建物で、柱と梁そして階段室と各住戸のコアの壁が打放しです。
公団団地の階段型に近い平面を採りながら、階段室を挟んで隣り合う住戸のレベルを半階ずらしたスキップフロアーの採用や、
バルコニーは設けずにコア部分の壁以外は、南北両面に梁型を残して全てガラス張りとした、最近流行のデザイナーズマンションを
先取りするような外観には驚かされます。
1959年には前川國男建築設計事務所の設計で、日本住宅公団の晴海高層アパートが竣工しました。1955年に日本住宅公団が発足し、
戦後の住宅供給が本格的に開始されて4年、この初の高層アパートの建設には、やはりコルビジェのユニテ・ダビタシオンの影響が
大いように感じられます。共用スペースには街路の様な性格をもたせ、打放しコンクリートにより、質素で最小限、
しかし開放的な住空間を作り出す試みがなされています。
60年代に入ると、コンクリート打放しの共同住宅は見当たらなくなります。この時期の公共建築の多くが打放し仕上げである事と比較すると
、意外なほどの少なさです。
特筆すべき建物としては、大高正人の設計した坂出人口土地が挙げられます。坂出人口土地は同氏の提唱する「人口土地」
の概念を適用して建てられた集合住宅で、9.18M間隔で配置された直径1Mのコンクリート打放しの柱で持ち上げられた人口土地の上に、
1階〜4階建ての集合住宅が建てられています。
公共建築の場合と同じで、70年代になっても事情は同じで、70年代後半に登場する安藤忠雄の登場までは、
コンクリート打放しの集合住宅は殆んど見られません。
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個人住宅においても、集合住宅同様に住宅の不燃化を進める研究もなされたものの、空襲で焼け出された人達の住まいを
一刻も早く供給する為に、選択の余地無く選ばれたのは、やはり工期が短く、供給する側も造りなれ、材料も入手し易い木造家屋でした。
1947年の新建築には、組立住宅、工場製住宅、規格既製住宅、工場生産住宅、住宅の大量生産、パネル式組立住宅など
現在のプレファブ住宅の先駆けとなる計画案や論文が見られますが、鉄筋コンクリート造についての言及は、
わずかに田辺平学の「組立鉄筋コンクリート住宅」だけであったことや、翌年行われた新建築の「新住居特集」や
「国民住宅懸賞競技」においても図面を見る限り木造建築が大半であることは、時代的にやむ終えないことでしょう。
「現代建築の軌」に戦後初めて本格的な鉄筋コンクリート造の住宅が登場するのは、1950年に竣工した松田平田設計事務所設計の丘の上の住宅で、
イギリス商社の為の社宅です。ただし打放しが採用されたと言う記述はありません。
コンクリート打放しの個人住宅が登場するのは、本格的な鉄筋コンクリート造では無いものの、妻壁を開口部の無い
コンクリート打ち放しの壁で自立させ、その他は木造の骨組みと仕上げ材で構成した、アントニン・レーモンド建設設計事務所設計の
フラットルーフの家(1950年)からです。残念ながら居住対象者の明記はありませんが、図面を見ると床面積は50u前後、間取りは
10畳程度の寝室とLD+Kなので、単身者か子供の居ない夫婦用の住宅だと分かります。妻壁に開口が無く、横に連続させれば
集合住宅に出来る構造であることや、当時の住宅事情から考えて、外国人用の住宅だと思われ、質素な造りと平屋建てであることから、
米軍基地内に建てられた駐留軍用の住宅なのではないでしょうか。翌年の1951年にも、レーモンドの事務所は部分的に
コンクリート打放し仕上げを用いて、外資系企業の4棟の社宅を設計します。横浜本牧の高台に建つスタンダード石油会社社宅では、
ラーメン構造のスラブを支える円柱が打放し仕上げで、外壁の木部の杉の竪羽目板との対比の面白さが、小さな白黒写真からも伝わってくる住宅です。
同年、中山克己建築事務所によって設計されたO氏邸は、本格的なコンクリート打放し住宅と言ってもいいでしょう。
図面の記載は無いものの、写真からもでもかなりの規模の住宅なのは見て取れ、仕上げには一部大理石や釜石も使用された豪邸です。
50年代に入り、日本の住宅事情もかなり安定はしてきますが、外国人向けの住宅や外資系企業の社宅などの一部の例外を除いては、
個人住宅で鉄筋コンクリート造の建物は殆んど無く、ましてや打放し仕上げの住宅などは皆無と言ってもいい状況は、やはり当然と言えるでしょう。
1950年の東京大学池辺陽研究室による立体最小限住居の試みや、1952年の増沢洵の自邸による最小限住居の試作に見られるように、
一般庶民の住宅を語る上で、最小限とかローコストと言うキーワードを外すには、もう少し時間が掛かるのです。
まだ大形の公共建築や民間の大形建築の少ないこの時期から57年頃までは、清家清、広瀬鎌二、林昌子、池辺陽、前川國男、山口文象、
レーモンド、篠原一男、増沢洵らの建築家によって設計された、多くの住宅建築が記載されていますが、木造でピロティを造った
丹下健三の自邸も含め、わずかな例外の別にして、その殆んどが木造住宅でした。
例外的に建てられたコンクリート造の住宅には、コンクリート打放しのフレームにブロックを積んだ吉阪隆正の自邸-人工の土地に建つ
住宅試作(1955年)。コンクリート・ブロックを型枠にした鉄筋コンクリート造の耐力壁を持つ、林雅子設計の型枠ブロックの家(1955年)。
柳建築設計事務所のPSコンクリート梁を用いた家(1955年)。曾原国蔵・倉橋純一設計の薄肉アーチスラブ形式による試作住宅(1956年)などの、
実験的な、または実験的な色合いの強い住宅が挙げられます。
そのなかで吉阪隆正設計のVilla CouCou(1957年)は、彼の師であるコルビジェがロンシャンの教会で示したコンクリートの彫塑性を強く意識した、
まるで彫刻の様な小住宅で、コンクリートをマッシブ(塊)として表わし、コンクリートそのものの素材感も表した打放し住宅の傑作です。
そしてもう一棟、1959年に建てられた菊竹清訓の自邸 スカイハウスは、コンクリート打放しの4本の壁柱で空中に持ち上げられた、
H.Pシェルの屋根と床から作られるワンルーム構成の夫婦の為の住宅です。またこの住宅は家族構成の変化に伴い、
竣工後数年でピロティーに子供部屋が吊り下げられ、菊竹らが唱えるメタボリズム(新陳代謝する建築)を実践した建築でもあり、
50年代の最後を飾るに相応しいく、コンクリートの素材表現と鉄筋コンクリート構造の可能性と空間表現、更に建築の新陳代謝をまで追及した、
住宅建築の傑作と言えるでしょう。
1966年に神宮前の外苑西通リに面したわずか20uの三角形の敷地に建てられた、東孝光の自邸 塔の家も、
内部外部を問わずコンクリート打放しで構成されています。
内部は地上5階地下1階の6層を階段で繋いだ究極の狭小ワンルーム空間で、オリンピックも終わり、既に土地価格が高騰していた都市部を離れ、
多くの人が郊外に住まざるをえなくなっていたこの時期に、若い世代が「如何に都市に住まうか」と、「新しい都市型住宅のあり方」
を示した戦後住宅史の残る住宅です。
60年台も後半に入ると、主に若手の建築家たちによって次々にコンクリート打放しの住宅が建てられます。
コンクリート打放し仕上げはまだ一般的とは言えないものの、建築家が設計に関った住宅においては、頻繁に使われていた仕上げであることは、
当時の建築雑誌や写真集を見ても明らかです。
現在では多くの建築家によってコンクリート打放しの住宅や共同住宅、店舗やオフィスが次々に建てられています。
私もその魅力に取り付かれた一人なのかもしれません。
アントニン・レーモンドが日本のみならず、世界的に見ても先駆者的な存在であった事は既に述べました。
丹下健三や前川國男、村野藤吾らの戦後日本の建築界をリードしてきた巨匠達や多くの若手の建築家達も沢山のコンクリート打放しの
建物を建ててきました。
ただ現在コンクリート打放しの代名詞のような存在でもある安藤忠雄が、1977年に世に送り出した住吉の長屋以降も作り続けた、
コンクリート打放しの数々の建物によって、今日一般にもコンクリート打放しが広く受け入れられる用になったことは、間違いのないところだと思います。
レーモンドの赤星邸でのコンクリート打放しに対する「潔癖な日本人にとっては一寸近づき難いかもしれないが・・・」
と言う当時の記者の言葉や、現存する50年台〜60年台の打放しの建物を見ても分るとおり、その仕上がりはザラザラとした荒々しいものでしたが、
型枠にパネコート(表面をつるつるに加工した型枠)を使うようになったことで、コンクリートの表面はツルツルした美しいものとなり、
整然と割り付けられた型枠とピーコン跡が作り出す表情は、モダンでカッコイイ壁面の仕上げとして、一般にも広く受け入れられるようになりました。
コンクリート打放しは今日では個人住宅やデザイナーズマンション、ブティックなどの店舗などを建てる際には無くてはならないものとなり、
街中のあちこちでコンクリート打放しの建物が見られるようになったのです。
約140年前、第2回パリ博で初めて本格的な建築に用いられた鉄筋コンクリート造は40年後に日本にも登場します。
デザインとしてのコンクリート打放しを意識した建物が、始めて登場するはペレーが設計したノートルダム・ル・ランシー教会ですが、
わずかに遅れて日本でもアントニン・レーモンドの設計で雲南坂の自邸が建てられ、日本建築に見られる素材の表現や構造を現す単純性を追及しました。
レーモンドの打放しは、その後のジュナイダーやコルビジェがコンクリートの造形的特性をいかした彫塑性を芸術的に表現した建築とは
一線を隔した日本的な打放しと言えるのかも知れません。
レーモンドやコルビジェの影響をまともに受けながら、戦後の日本では前川國男や丹下健三らが敗戦による物資不足と
貧困と言う要素も加わって、ある時は日本的な、ある時は彫塑的な建築を次々に作り出し、HPシェルやプレキャストコンクリートなどの新技術も加わり、
コンクリートの表現は多種多様なものになったのです。
そして70年台後半に登場する安藤忠雄設計の一連の住宅や集合住宅、店舗などによって、コンクリート打放しは一部の
特殊な建物だけではなく、広く世間に受け入れられる仕上げになりました。
勿論、安藤建築の素晴らしさはパネコートによる綺麗な仕上がりと割付だけではなく、抜きに出たデザイン力と抜群のセンスの良さによる
ものである事は言うまでもないでしょう。
私がコンクリート打放し仕上げが好きな理由は、ごまかしの効かない仕上げだからです。設計の良し悪しが影響することは当然の事として、
コンクリートの配合計画、鉄筋や型枠の状態、施工部隊の人員配置、職人の経験や遣る気、当日の天候から交通渋滞までがコンクリートの出来栄えに影響を及ぼします。
施工時に少しでも手を抜くと、悪い結果は型枠をはずした時にジャンカやコールドジョイントとなって表れます。
ジャンカを恐れるあまり、柔らか過ぎる(水分量の多い)コンクリートを打設した場合の悪い結果は、後になってからクラックが発生します。
打放しはごまかしが効きません。当然の現場での職人さんや現場監督の気合の入り方は、タイル張りなどの仕上げのある建物のそれとは違って見えます。
打設に関る人員も何人かは多いかもしれません。
それでも万が一、少々の痘痕が入ったとしても、コンクリートの品質は高いものになっているはずです。
仕上げをしてしまう建物と違って、コンクリートの状態を目で見られるのも良いことです。
ただ、最近あまりにコンクリート打放しが流行り過ぎている事にも、少々不安も感じています。
ファション感覚だけでコンクリート打放しをとらえ、少しでも出来上がりに色むらや痘痕が入っただけで、
直ぐに補修を求める方にはコンクリート打放し仕上げはお勧め出来ないし、コンクリートを打設する前から「後で補修すればいい」と考えている施工店には、コンクリート打放しの建物を受注してもらっては困ります。
建主にも工務店にも、補修は「どうしてもやむをえない場合の最後の手段」だと考えて頂きたいのです。
安易な補修への誘惑は、決してコンクリートの品質を良くするものではないからです。
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参考文献
建築学大系6近代建築史 (山本学治、神代雄一郎、阿部公正、浜口隆一共著/彰国社)
建築史 (堀口捨己、村田治郎、神代雄一郎、川上貢、相川浩共著/オーム社)
コンクリート構造 (本岡順二郎著/彰国社)
建築一般構造 (小林秀禰、中川中夫、小崎嘉昭著/共理工学社)
建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド (神奈川県立現代美術館編集)
近代建築散歩 東京・横浜編 (宮本和義、アトリエ5/小学館)
帝都復興せり! (松葉一清著/平凡社)
新建築1995・12月臨時増刊号「現代建築の軌跡」(新建築社)
新建築1991・1月臨時増刊号「建築20世紀PRAT1」(新建築社)
新建築1991・6月臨時増刊号「建築20世紀PRAT2」(新建築社)
別冊新建築 日本現代建築家シリーズH村野藤吾 (新建築社)
現代日本建築家集2村野藤吾 (三一書房)
世界平和記念聖堂 (石丸紀興著/相模書房)
現代建築家 安藤忠雄 (鹿島出版社)
安藤忠雄建築展 新たなる地平に向けて (安藤忠雄建築展実行委員会、新建築社、セゾン美術館、朝日新聞社編集)
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